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映画『海難1890』を鑑賞

本日は日本とトルコの両国間で行われた史実が元になる作品。
1890年のエルトゥールル号海難事故、そして、1985年のテヘラン邦人救出。
2つの物語を繋いだのは苦難に陥っている人を救いたいという心の架け橋。
両国間の人々による真心、国の枠を通り越えた人間の心の美しさでした。世界が一つになる可能性を見た想いです。
埋もれかけた語り継ぐべき史実を製作してくれた方々に感謝します。
鑑賞の際はエンドロールまで席を立たないように‼

ムーンライズキングダム

男性/46歳/千葉県/Come live with me ~共に生きよう~
2015-12-20 22:50

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エルトゥールル号海難事故について 
1887年、小松宮彰仁親王は夫妻でイスタンブールを訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見した。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする600人の使節団を日本に送った。
(当時日本は明治維新の改革が軌道に乗り始めたころ。一方、トルコはオスマン・トルコ帝国が西洋列強に領土を侵される危険を感じていた。両国の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていた)
一行は軍艦エルトゥールル号で11ヶ月かけてやってきた。そして、明治天皇と会見後、各地で盛大な歓迎を受け、3ヵ月後に帰国の途につくことになった。
エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった
折からの台風シーズンで、建造後30年たつ老朽船は和歌山県の樫野埼付近の岩場で座礁し、エンジンが蒸気爆発を起こし沈没。
この遭難に50戸、400人の大島村の村民が総出で決死の救援にあたり69名の命が救われた。
400人しかいない村で、69人の食料を提供することは大変な事だった。村では漁をしてとれた魚を隣の町で米に換える貧しい生活で、台風で漁ができないのとあわせ、食料はすぐに底をついた。食べさせたくとも自分たちの食料すらなかったのだ。
そこで村人たちは、自分たちの非常食として飼っていた鶏を料理し始め、彼らはこれで命を長らえることができたといわれている


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男性/46歳/千葉県/Come live with me ~共に生きよう~
2015-12-21 05:26

おぉ、一度見てみたいです。

確か、後に有名になる秋山真之が青年士官の頃、日本の軍艦に乗組んで
彼ら生存者をオスマン・トルコまで帰国させる任務についたとか…聞いた記憶があります。

つきのわ上等兵

男性/42歳/愛知県/会社員
2015-12-21 11:44

トルコによるテヘラン邦人救出
1985年3月17日20時30分「イラン上空を航行するすべての航空機はイラク空軍の攻撃対象となる」
フセイン大統領が発した声明に、全世界は驚愕、48時間後に実行されるこの無差別攻撃が始まれば、もうイランから逃げることができなくなる。その時イランにいた日本人は約300人
しかし、イラン脱出を願う人たちは日本人ばかりではない。各国の航空会社はギリギリの運行便で自国民を乗せ飛び立っていく。日本政府も対応に追われたが、日本の航空会社はイランへの定期便がなかった。日本航空がチャーター便を飛ばすにはイランとイラクの航行安全の確約を取らなければならない。日本政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼したが、日本航空のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由にいずれもこの要請を拒絶。
(日本政府はイランの確約を取ったもののイラクからの返事が得られなかった。)
日本人救援のためにJAL便がテヘランに飛ぶことはなかった。
イラン・イラク戦争の真っ只中、イランの首都テヘランでは、毎晩爆撃が続いた。命の危険を感じる日本人はテヘラン市内のホテルに身を寄せ、日本大使館からの救援情報を待っていた。あと数時間でイラクの無差別攻撃が始まる。日本航空は飛んでこないとの一報にイランにいる日本人は絶望の淵に沈んでいた。

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男性/46歳/千葉県/Come live with me ~共に生きよう~
2015-12-21 21:33

3月19日午後8時30分のタイムリミットが迫ってくる中、空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港に2機のトルコ航空機が降りてきた。定期便に寄り添うようにもう一機のトルコ航空機が降りてきた。1機目の215人乗りのボーイング727の全座席は搭乗を待つ日本人に与えられ、2機目には1機目に乗り切れなかった日本人と同じく本国からの救援を待っていたトルコ人が乗り込んだ。
午後6時、2機のトルコ航空機はイランを飛び立ち、トルコに向った。日本人全員が救出された。
日本航空も飛ばないところに、なぜ遠く離れたトルコの飛行機が日本人を救出するために飛んでくれたのか。
トルコに直接依頼をしたのはふたつのルートだとされている。ひとつは伊藤忠商事のイスタンブール(トルコ)支店長だった森永氏が親交のあるトルコのオザル首相に依頼したルート。
もうひとつは、イランの野村大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート。二人は同じ日に大使としてイランに着任し、親交を深めた仲だった。ビルセル大使は本国に日本人救援を訴えた。
しかし、戦火に救援機を飛ばすのは命がけの仕事。いくら政府がトルコ航空に依頼しても断る理由はいくらでもあったはず。ところが、トルコ航空では、すぐさまミーティングが開かれ、特別機への志願者を募った。これに、辣腕の機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げたのだった。こうして実現したトルコによる日本人救出劇に、どうしての疑問が日本国内で持ち上がった。一方トルコでは、イランにいたトルコ人は6千人といわれ、救出を望んでいたはずなのだが、救援機が日本人を優先的に乗せた事にはなんの非難も出ていなかった。多くのトルコ人が当り前だと思っていたのだ。6千人のトルコ人は陸路を数日かけて脱出したという。トルコが日本人を救出した理由は100年前に行なわれた日本人の行為だったと後日駐日トルコ大使が明かした。

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男性/46歳/千葉県/Come live with me ~共に生きよう~
2015-12-21 21:41

エルトゥールル号が沈没した際、日本の人々は命をかけてトルコ人を救ってくれたという出来事が多くのトルコ人に刻まれていて、100年近くたっても感謝の気持が消えなかったのだ。だから、イラン・イラク戦争で命の危険にさらされた日本人を優先的に救出することにトルコ人は誰も異議を唱えなかった。
トルコ航空ではクルーが志願して救出機に乗り込んだようです。
無事にイラン国境を超えた際、機長は機内放送で「ようこそトルコへ」とアナウンスし、機内は歓喜に溢れた。

ムーンライズキングダム

男性/46歳/千葉県/Come live with me ~共に生きよう~
2015-12-21 21:51