信ずるものは有りますか?
昔々、私が21歳だった頃、ちょっとしたことで知り合った50歳くらいの米国人が放ったひと言を未だに憶えています。
「ドルは信じられない。いわゆる通貨というモノは信じるものではない。俺が信じるのは金だけだ」と。
彼はそれなりに成功していたビジネスマンで、ある程度まとまった預金ができるとすべからくゴールドに置き換えて資産管理をしていました。
この米国人は極端な一例だとしても……信ずるものを持つ者はある意味幸せですね。行動に迷いがない。他人に流されたりすることもないので、ブレることがない。
誰でも、生きていく限りは信じられるものを持った方が良いのだろう、と思っています。言い換えれば、自分が生きる上での“原理”とか“原則”のようなもの。
そしてそれは、“自分だけのもの”であるべきだ、とも考えてきました。自分だけのもので収めている限り、謙虚でいられるだろうから。間違った時には反省し、謝罪し、やり直すことができる。
しかし一度、同じ主張に与する者を増やそう、仲間を増やそうとし始めた時、人は傲慢になり始める。
それこそ、不遜の極み。
迷う時、途方に暮れる時、打ちひしがれる時、私は自分の心が傾き始めるのをじっと待つことにしています。
私は特定の神や仏を信じる人間ではありません。最初に書いた米国人のようにゴールドを信じる訳でもありません。
でも、上手く説明できないのですが、自分の心の傾きが、私にとっては“神のようなもの”なのです。自分の心の傾き、それが私が信ずるものです。
仮に、唯一無二の友が病に臥せったとします。
その時、自分は一世一代の大勝負といえる仕事を抱えているとします。
友の回復を心から願いながら仕事を進めるか、仕事を放り出してでも友の元に駆けつけるか……
それを決めるのは、その時の私の心の傾きです。
私だけの“原理”、私だけの“原則”です。
鴻の親父(おおとりのおやじ)
男性/66歳/埼玉県/居酒屋やってます
2019-02-02 03:12