バックバーの、ある物語。
私はバーで働いています。
バーの酒棚には、それぞれの店の個性があるのです。
私の店の酒棚にも、一つの物語りがあります。
私の店が開店した当初に、
よく二人で来店していた御客様が、
最後の一杯に、決まって飲む酒がありました。
私は、随分と月日が過ぎてから、
その女性が、お亡くなりになったと、人づてに聞いたのです。
連れの男性は、今では、数年に一度、来店する程度ですが、
その酒を飲む事は、ありませんでした。
しかし、彼にとっては、
その酒が私の店に在るのは、
疑う余地の無い当然の事なのです。
いつか彼が、その酒を飲みたいと想った時に、
提供出来る日が来る事を私は知っていました。
ある雨の日。
バーの扉が開いた店先に、
その男性が立っていました。
男性がオーダーしたのは、
もう20年も昔の懐かしい酒でした。
ラヂオから流れるデュークエリントンの調べに乗って、
外の雨音が彼に語りかけてくるのは、
どんな声だったのでしょう。
その男性は、ゆっくりと一杯の酒を味わい、
笑顔で帰られました。
bar亭主
男性/60歳/東京都/自営・自由業
2020-07-20 02:36