私の3.11案件 10年経って今思うこと
本部長 浜崎秘書 リスナー社員の皆様
10年前のあの日、当時大学生だった私は、宮城県石巻市で被災しました。
飲食店のバイトに向かう道中に突然ザワザワと木が揺れ始め、急に下から突き上げるような揺れに私は、転倒してしまい一瞬何が起きたか分かりませんでした。
3分以上の大きな揺れに「地震だ」と気づき、足元がフラつきながらもバイト先に向かいました。バイト先に到着してみると店内は、物で散乱して営業できる状態ではありませんでした。店長は、「今日はもう営業できない。店の片付けはいいから早く家族の所に帰るように」
と言われましたが、私の自宅は、50km離れた宮城県仙台市に自宅があり、バスも電車も動かず、道路も通行止め、帰る手段がありませんでした。携帯電話も繋がらないので家族と連絡が取れない不安の中、バイトの先輩たちと一緒に避難所に向かいました。
避難所に向かってる中、16時頃でしょうか、突然足元から水が流れてきました。
そう津波です。たまたま海岸から離れていたこともあってか膝下が水に浸かる程度でしたのですぐに高台のある避難所に向かい津波から逃れることができました。
避難所に到着し、ここで一夜を明かしましたが、夜中までけたたましく鳴り響く緊急地震速報に余震。大きい余震が来るたびに津波警報が発令し、街中にサイレンが鳴り響き、
まさにそれは、戦時中の日本のようでした。
翌朝、一睡もできない中、避難所を出てみるとそこには衝撃的な光景がありました。
昨日まで平穏だった市街地は津波で水没していたのです。かろうじて水没していない電車の線路を歩きながら市街地の奥まで行くと私のバイト先も水没していました。
昨日の津波で瓦礫や水没している道路が多数あったので自宅に帰るのが更に困難な状況で
避難所に生活していました。その時、避難所で知り合った男性が車で仙台に向かうということなので私も乗せて頂き、お隣の山形県を経由し、6時間かけて仙台に到着しました。
家族に再会できたのが3月16日の地震発生から5日目の事でした。
震災から2週間後、親戚の叔母が津波に飲み込まれ、遺体で発見されたと連絡がありました。私も津波を目撃し、亡くなっていたかもしれない。叔母は亡くなり自分が生きていることに生きる意味とは何なのか自問自答していることがあり、今でも3月の時期になると考えてしまいます。
横浜のお肉太郎
男性/35歳/神奈川県/会社員
2021-03-10 22:09