私の3.11
2011年。
私は卒業を控えた音楽大学の四年生でした。
あの日は都内のホールにて出演するコンサートの当日でした。
間もなく最終リハーサル開始というタイミング。控え室で仲間と談笑していると、生まれて初めて感じる強く、長い揺れ。
慌てて建物の外に出た時に目にした、激しくしなる一方通行の交通標識が今も目に焼き付いています。
揺れが収まってからホールのロビーに集まり、テレビから流れる映像に絶句。ミニチュアみたいに流される車や家々を見て足がふるえました。
コンサートはそのまま中止。なんとか動いていたバスに乗れて、さほど長距離を歩かずに帰宅出来ました。
その夜は友人の家に集まって、繰り返される余震に震えながら過ごしました。ニュースの画面に映る日本地図が、「津波警報発令中」を示す赤いラインにすっぽりと縁取られていくのを見ながら、何も考えられなくなっていったのを覚えています。
それからしばらくはバイトも無くなり、大学の校舎は立ち入り禁止になり、日がな一日布団にくるまって、流れるニュースを見ては無意味に涙が溢れてくる。そんな日々を過ごしてしまいました。
被災地から遠く離れた東京にいてこれだったんです。何も失っていない僕ですらこのありさまです。被災された方々の思いは幾ばくか。僕の想像力は到底及びません。
10年という時間は何の節目にもなりませんが、忘れないためのカウントは絶対に必要で、この地震を知らない世代にも語り継がないといけない。
勿論、災害は東日本大震災だけではありませんから、自分の思いが届く範囲にはいつだって思いを馳せていたいと思います。
具体的な支援の行動を起こせることもありますが、リアルな話をすると、今の自分の生活を成立させることに必死なものですから、「忘れない」ことをまず続ける。自分の身に何かが起こったときに「生き残る」ことを心がけようと思います。
あれから10年、当時の恋人は妻になり、娘も生まれました。守るべきものができて余計にそう思うのです。
梅屋敷
男性/36歳/東京都/会社員
2021-03-11 16:04