365回目の夜
笑顔で過ごせる時間があれば、憤懣やる方ない時間もある。
涙も出ないほど辛い時間があれば、平穏に満たされる時間もある。
歌いたくなる時間があれば、静かに沈降していたい時間もある。
自分がなかなかの捻くれた人物だということは長年意識してきた。
学童の後期から思春期と呼ばれる頃まで、友人と呼べる“他人”がひとりも居なかった。そんな生い立ちが捻くれた遠因かもしれない。
他人との関わりが薄かったせいか、ひたすらに好きな作家の小説を読み耽り、ひたすらに好きなミュージシャンの音だけを聴いていた。
ひとりぼっちが不思議と心地よく、苦痛とは思わなかった。
が……
二十歳を過ぎた頃に、他人の温かさに目覚め、嬉しくて心震えた。
それなりに恋をしたが、不器用過ぎたらしく、すべからく失敗した。
そして素人っぽく哲学にハマった。
が……
自分が生きていることの意味とか、人生の目的とか、いつの頃からかは憶えていないが、そんなことを考えるのをやめた。
哲学にハマったくせに、やめた。
答えを見つけられないから、やめた。
哲学とは、疑うことである。
自分が見つけた答えさえも疑うことである。
それよりも大事なこと。
時間は勝手に流れて過ぎる。
心臓が動いて、呼吸ができて、四肢が動くなら、ヒトは生きなければならない。
生きていれば、やらなけりゃならない仕事ができる。
日に数回は食べ、一回は眠らなけりゃならない。
重要とはいえなくても、面白いと思ったことはやりたくなる。
平々凡々。
それで良し。それで佳し。
が……
平々凡々に生きたくても、それが許されなかった若者がいた。
どんな顔で笑い、怒ったのだろう。
どんな声で話し、笑ったのだろう。
365回目の夜。明ければ365回目の朝。
明日は、一周忌。
鴻の親父(おおとりのおやじ)
男性/66歳/埼玉県/居酒屋やってます
2022-06-22 22:41